中原昌也『名もなき孤児たちの墓』


名もなき孤児たちの墓

名もなき孤児たちの墓


町田康をしていま現在若手ナンバーワン作家と言わしめた鬼才・中原昌也の最新短編集。内容的にはいつもとなんら変わりはない。あいも変わらず働きたくないとか書くことがイヤだとか女をブッ殺したいとか、お得意の中原節が炸裂している。作品集を通して重苦しい空気が充満し、読み手に対して生きることの苦しさと無意味さを確認させる。中原はこの世の馬鹿馬鹿しさや不快さを個性的な鋭い視点と独特の筆致で暴きあげる男だ。それに加えて、以前よりもはるかに器用な描写が見られたり、胸を深く突くようなドキッとする比喩が用いられていたり、作家としての成長も確認できる作品集となっている。もうこれでふざけているとかバカにしているとか見当外れな彼に対する批判はなくなることだろう。
最初の‘私の『パソコンタイムズ』顛末記’から時間をかけて精読したので感想を述べようと思う。











しかし、書きたいことが頭に思い浮かばない。わずが一冊の本を1週間もかけて読んだのに感じたことや印象に残った物語が全く思い浮かんでこない。そもそもなぜ俺はこんなことをしているのか。ヒマだからか。自分が日々考えているようなことや、どこで何をしてきたかを、インターネットというどこの誰が読んでいるか判らぬようなある種の無法地帯に態々晒し上げることに何の意味があるのだろうか。それこそ時間の無駄だ。そのうえ一銭のカネにもならない。こんなことだからいつまでたっても貧乏生活から脱出できないのだ。人の為にならない珍妙な無償活動だ。読んでる人だって楽しくないだろう。楽しくないどころか不快極まりないであろう。そうに違いない。書いてる俺本人はもっと楽しくない。毎日毎日面倒なだけだ。こんなことをしている暇があるのならば散らかりまくった部屋を掃除したり、新聞を読んで世界情勢や経済の知識を身につけたり、仕事の勉強をしたり、アイロンをかけたり芝刈りをしている方がよっぽど有効な時間の使い方な筈だ。一年以上文章を書き続けたって文章力は全く向上しないし、己の愚かさとセンスの無さににだた脱帽するだけだ。町山氏や吉田女史や仲俣氏のような「大御所はてなダイアラー」の足元になど及ぶはずがないのだ。
むかし、『書を捨てよ、町へ出よう』と言った芸術家がいたが、私は今すぐにでもパソコンをハンマーで思いっきりブッ叩いてこんなくだらないことからすぐに足を洗うべきなのだ。IT社会とかなんとか騒いでるその辺のつまらない奴等も一緒にまとめてぶっ殺してしまおうか。貧乏なくせに16万円以上もの大金をだしてパソコンを買ったことが間違いであった。ただNECケーズデンキを儲けさせただけだった。陰毛が生え揃う前の少女の裸を見て自慰をするという人生においてただ一つの楽しみ(俺らしいスケベ行為だ!)のほうがよっぽどマシに思えてきた。










ラストの中篇・‘点滅…’は中原昌也の作品のなかでも最高に読み応えのあるモノに仕上がっている。中原昌也という前衛作家の評価が今後どう変わっていくのか、俺はその歴史の証人に今なろうとしている。リアルタイムで読めることほど嬉しいことはない。